綿のまち豊浜で、快眠を紡ぎ続ける ~西部製綿(寝心地ラボ+ byふとんのせいぶ)123年の歴史~
1.はじめに
明治35年(1902年)の創業以来、当社は実に123年もの長きにわたり、ここ香川県観音寺市豊浜町を拠点に、皆様の暮らしに寄り添う寝具を提供し続けてまいりました。
その道のりは、日本の生活様式の変化や時代の荒波にもまれながらも、常に「より良い眠り」を追求し続けた挑戦の歴史でもあります。
かつて日本の暮らしに深く根付いていた「綿」。その温もりと優しさから始まった私たちの物語は、今「快眠」という、より専門的で科学的なアプローチへと進化を遂げています。
本記事では、当社が歩んできた123年の軌跡を振り返り、私たちが何を大切にし、どのように変化を遂げてきたのか、そしてこれからどこへ向かおうとしているのかをお伝えしたいと思います。
過去から未来へと続く私たちの物語に、しばしお付き合いください。
2.創業の夜明け – 綿花の薫る大地と共に(天文元年頃~明治・大正時代)
2-1. 綿が紡いだ西讃の風土と暮らし(天文元年頃~江戸時代)
私たちの物語の源流は、遠く室町時代、天文元年頃(1532年)にまで遡ります。
この年、関谷兵衛国定という人物が、現在の豊浜町関谷地区に移り住み、綿の栽培を伝えたとされています(この時期については諸説ありますが、現在広く伝えられているのは1532年説です)。
江戸時代に入ると、丸亀京極藩が綿栽培を奨励したことにより、この地での綿作りは一層盛んになります。
雨が少なく、温暖な気候と水はけの良い土地柄が綿栽培に適していたこともあり、西讃地方は良質な綿の産地として知られるようになりました。
農家の軒先では綿繰り機が軽快な音を立て、女性たちは糸を紡ぎ、布を織る。綿は人々の生活を支える重要な産物であり、地域の経済を潤す存在だったことがしのばれます。
やがて「綿」は「塩」「砂糖」と並んで「讃岐三白」と称されるようになります。
2-2. 「綿屋」の誕生と「三豊(さんぽう)合資会社」の船出(明治時代)
明治時代に入り、日本の近代化が進む中で、綿製品の需要はますます高まりました。
そのような社会情勢と、地元での盛んな綿栽培を背景として、現在の豊浜町関谷地区では、綿の加工や販売を行う「綿屋」が次々と創業しました。
そして明治35年(1902年)、私たちの直接のルーツとなる出来事が起こります。
私たちの祖先である石川磯五郎が地元の数名と共同で「三豊(さんぽう)合資会社」を設立しました。これが、西部製綿の歴史の第一歩となりました。
当時の人々は、地域の特産である綿を活かし、人々の暮らしに温もりと快適さを届けたいという熱い想いを抱いていたことでしょう。
この頃の生産方法に関しての詳細は定かではありませんが、熟練した職人の手で丁寧に綿を加工し、ふとん綿を作り上げていたはずです。その実直なものづくりの精神は、今も私たちの根底に深く流れています。
その一方で、貿易が盛んとなったことにより、海外から安価な(原料としての)綿が輸入されるようになり、地元だけでなく我が国全体で、産業レベルでの綿の栽培は廃れていくこととなります。現在、綿の栽培は保存会や一部の愛好家によるものに留まっています。
また地元(香川県観音寺市立)豊浜小学校では、長らく授業の一環で綿の栽培が行われていました。
これと併せて、つい最近(2022年)まで豊浜小学校の4年生が、当社の製綿工場に社会見学として来ていました。
2-3. 歴史を刻む「木造製綿工場」の建設(大正時代)
会社が軌道に乗り始めた大正時代には、新たな動きがありました。敷地内に広大な木造の綿工場が建てられ、その一角(旧国道沿い、山側)に会社の事務所が配置されました。
平成18年(2006年)の工場火災の際、広大な木造の綿工場は取り壊されることになりますが、奇跡的にこの事務所棟だけは残りました。
そして後に改修され、『綿乃舎(わたのや)』と名付けられ、地域の皆様の新たな社交場として生まれ変わることになります。100年以上の時を超えて、私たちの歴史と想いを今に伝える、かけがえのない存在です。
このことは後述したいと思います。
3.激動の時代を乗り越えて – 試練と成長の足跡(昭和初期~昭和40年代)
3-1. 戦時下の統合と再出発(昭和14年~昭和20年)
昭和に入り、日本は戦争という未曾有の国難に直面します。
昭和14年(1939年)、戦時下の企業整備(統制)により、単独企業での操業が困難となりました。しかし、この困難を乗り越えるため、地元の綿屋が集まって「西部製綿合同綿工場」を組織。当社の工場に地元の製綿業者らが集い、綿ふとんの製造を続けることになりました。
物資が乏しく、自由な企業活動が制限される厳しい時代でしたが、人々の生活に必要な寝具を供給し続けるという使命感を持って、合同工場は運営されました。
そして昭和20年(1945年)、終戦。長く続いた戦争が終わりを告げ、統制も解除されると、地元の綿屋たちは再び単独での操業を再開します。平和の訪れと共に、人々が安心して眠れる日常を取り戻すため、先人たちは新たな決意で事業に臨んだに違いありません。
3-2. 「西部製綿株式会社」設立と品質へのこだわり(昭和23年~昭和40年)
戦後の復興が進む中、昭和23年(1948年)、合同工場の名前を引き継ぐ形で「西部製綿株式会社」が設立され、法人化を果たしました。
会社の組織体制を整え、より一層社会に貢献していくという強い意志の表れでした。この時、初代社長には創業者・石川磯五郎の息子である石川義男が就任しました。
しかしながら石川義男は「中国銀行」豊浜支店の初代支店長も兼ねていたため、会社の実質的運営は息子の石川幸和が行っていたようです。
石川幸和は計四トラックに乗って、まだ舗装もされていなかった道路を走って四国中を回り、得意先を広げていったそうです。
ものづくりへの情熱は、品質への飽くなきこだわりとして結実します。昭和40年(1965年)には、当社のふとん綿のブランド名を「おかめわた」として商標登録しました。
ふくよかで優しい「おかめ」の顔を冠したこのブランドは、上質な綿だけが持つ温かさ、柔らかさ、そして安心感を象徴するものでした。それ以降「おかめわた」は多くのお客様にご愛用いただき、西部製綿の品質の高さを伝える代名詞となっていきます。
3-3. 信頼の証と生産体制の強化(昭和41年~昭和45年)
品質への追求は留まることを知りません。昭和41年(1966年)、四国で初めてふとん綿の日本工業規格(JIS規格)を取得。これは、私たちの製品が国の定める厳しい基準をクリアしていることの証であり、お客様への信頼をより確かなものにする大きな一歩でした。
この頃、既に社長は石川幸和に代わっていました。元日本陸軍の近衛連隊中隊長という経歴を持つ幸和は、とても厳格で実直な人物でした。
石川幸和は西部製綿の「中興の祖」ともいうべき存在です。
幸和の口癖は「中身の見えない綿だからこそ、ごまかしは絶対にするな。」でした。これは、地元の同業者の中には粗悪な綿を混ぜてコストを下げるような不正を働くところもあったことを意味していたようです。
しかし、幸和の厳しくも実直な姿勢が製品に宿り、やがて「西部製綿の綿なら間違いない。」と地元の同業者からも厚い信頼を得るようになりました。
そして、高度経済成長期に入り、生活水準が向上するとともに寝具への需要も高まりを見せます。
これに応えるべく、昭和45年(1970年)には、鉄筋2階建ての製綿工場を新築。生産能力を大幅に向上させ、より多くのお客様に高品質な綿製品をお届けできる体制を整えました。この新工場は、未来への成長を見据えた大きな投資であり、西部製綿の発展を支える重要な基盤となりました。
この頃、工場では約40名の社員が製造に携わり、四国四県はおろか本州(岡山、広島など)にも数多くの得意先を持つほどでした。
4.新たなる挑戦と時代のうねり – 小売事業への進出と変化への対応(昭和50年代~平成初期)
4-1. 地域と共に歩む「豊浜綿寝具協同組合」の発足(昭和53年)
地域との連携は、私たちの事業にとって常に重要なテーマでした。昭和53年(1978年)、当社を含む地元の製綿業者23社が集まり、「豊浜綿寝具協同組合」が発足しました。
これは、個々の企業の力を結集し、地域産業としての綿寝具製造をさらに振興させ、共に発展していくことを目指したものです。組合を通じて情報交換や共同事業を行うことで、地域全体の競争力向上にも繋がりました。
4-2. 小売事業へ参入し顧客接点を創出(昭和57年)
時代の変化と共に、お客様のニーズも多様化していきます。単に製品を製造するだけでなく、お客様一人ひとりの声に耳を傾け、最適な寝具を提案する必要性を感じるようになりました。
そこで、昭和57年(1982年)、社長石川幸和は大きな決断をします。店舗を新築し、小売事業へ本格的に参入したのです。この時建てられた小売店舗は、その後何度も改装の手を加えながら、現在に至っています。
小売店舗の設立により、製造から販売までを一貫して手がける体制が整い、お客様との直接的なコミュニケーションが可能になりました。
「どんな寝具が求められているのか」「どんなお悩みがあるのか」といった一般生活者の生の声をお聞きできるようになったことは、その後の私たちの事業展開において非常に大きな意味を持つこととなります。
4-3. 「綿のまち豊浜」の隆盛と時代の変化(昭和61年~平成時代)
昭和61年(1986年)、豊浜綿寝具協同組合は「わた神社」を建立しました。これは、綿への感謝と、綿産業のさらなる発展を願うものでした。併せて綿にちなんださまざまなイベントを開催したこともあり、テレビや新聞などでも頻繁に取り上げられました。
この頃から豊浜町は「綿のまち」として広く知られるようになります。「綿」は地域の誇りであり、アイデンティティとも言える存在でした。
しかしながら、その一方で時代は大きな転換期を迎えます。
平成に入ったころから海外から安価な綿製品が大量に輸入されるようになり、また、羽毛ふとんをはじめとする新しい素材の寝具が普及。日本の伝統的な綿ふとんの需要と生産量は、残念ながら徐々に減少し始めました。
地元の全ての製綿業者は昭和から平成になる時期をピークに、売り上げを落としていくことになります。
加盟23社で発足した豊浜綿寝具協同組合ですが、令和7年現在で加盟4社にまで減少しています。しかしながら数こそ減ってはいますが、加盟4社で力を合わせてしっかりと事業活動を継続しています。
ちなみに、この文章を執筆している私(石川克幸)は、現在豊浜綿寝具協同組合の理事長を務めています。
5.「快眠」への確かな一歩(平成中期~令和初期)
5-1. 専門知識の導入と新たな販売スタイル(平成15年~平成16年)
時代の変化に対応し、お客様に本当に価値のあるものを提供し続けるためには、私たち自身も進化しなければなりません。
平成15年(2003年)「大阪西川チェーン」に加盟。これにより、寝具業界のリーディングカンパニーである西川の持つ豊富な専門知識や最新技術、商品ラインナップを取り入れることが可能になりました。この頃の社長は石川昌幸(石川幸和の娘博子の夫、婿養子)です。
そしてちょうどこの年、石川裕美(石川昌幸の娘)と、この記事を執筆している現社長、石川克幸(裕美の夫、婿養子)が入社しました。
翌平成16年(2004年)、小売店舗を全面的に改装しました。
店舗改装に合わせて画期的なシステムを導入しました。
それが「体型測定に基づくオーダーメイド枕の作成システム」です。このシステムは、やがて「体型測定・体圧分散測定に基づく枕とマットレスコンサルティング提案・販売システム」に進化していくことになります。
お客様一人ひとりの体型や寝姿勢を専用の機械で測定し、そのデータに基づいて最適な枕やマットレスをご提案するという、科学的根拠に基づいたアプローチ。
これは、単に「モノ」を売るのではなく、「快眠という体験(コト)」を提供するという、私たちの事業の大きな転換点となりました。
現在でこそ、寝具専門店でもコンサルティング販売が一般的に行われつつあるようになりましたが、当時そういった取り組みは全国的にもほとんどなく、当社は時代の最先端を走っていたと言えるでしょう。
5-2. 試練を乗り越え、未来へ繋ぐ(平成18年)
順調に新たな歩みを進めていた矢先、私たちは大きな試練に見舞われます。平成18年(2006年)、長年私たちのものづくりを支えてきた製綿工場(鉄筋部分)が全焼するという悲劇が起こりました。
一時は途方に暮れましたが、地域の皆様や関係各位からの温かいご支援、そして何よりも「この地で事業を続けるのだ」という強い想いに支えられ、私たちは前を向きました。
その年の秋には、新しく鉄筋2階建ての製綿工場を建設し、操業を再開することができたのです。
この出来事は、私たちにとって筆舌に尽くしがたい困難でしたが、同時に、西部製綿の不屈の精神と、地域との絆の強さを再確認する機会ともなりました。この経験は、私たちの歴史の中で決して忘れることのできない、未来へと繋がる重要な一ページです。
この火災の後、大正時代に建てられた製綿工場の木造部分も大半が取り壊されましたが、奇跡的に唯一残った建物がかつての事務所棟でした。
製綿工場の火災(2006年1月)から、新工場の再建(2006年10月)までの約9か月間、この建物が臨時の仕立て場(ふとんの縫製場)として活用されました。
それ以降18年間にわたって、この建物は使われることなく放置されることになりますが、令和6年(2024年)にリノベーションされ『綿乃舎(わたのや)』として生まれ変わりました。
5-3. 快眠のプロフェッショナルへ(平成24年~令和2年)
時代のニーズが「量」から「質」へ、「モノ」から「コト」へと移り変わる中で、私たちも「綿ふとんの製造販売」から「快眠のトータルサポート」へとメインの事業領域をシフトしていきます。
2010年頃まで店舗の2階はプライダル寝具の展示場でしたが、ベッドのショールームに全面変更しました。
平成24年(2012年)には、新しいロゴマーク「快眠招き猫」を商標登録しました。
愛らしい招き猫が、お客様に「快眠」という福を招くように、という願いを込めたこのマークは、「おかめ綿」に代わって、新しい西部製綿の顔として長らく親しまれました。
体型測定、体圧分散測定に基づく、オーダー枕やマットレスのコンサルティング販売の接客実績は、導入以降の21年間で6,000件を超えました。
おそらくこれは全国でもトップレベルの実績だと思われます。
取扱商品もどんどん見直し、それと併せて売り場構成も変えていきました。
令和2年(2020年)には、東京西川チェーンと大阪西川チェーンの統合により、新たに西川チェーン加盟店となりました。これによって全国から様々な情報を取り入れることが出来るようになりました。
さらに同年、四国で初めて「パラマウントベッドパートナーショップ」にも認定。医療・介護用ベッドのトップメーカーであるパラマウントベッドの高品質な製品と専門知識を通じて、より幅広いお客様の睡眠環境改善に貢献できるようになりました。
現在当店は、パラマウントベッドの販売際数が四国ナンバーワンです。
5-4.わた神社の再建(平成28年)
「わた神社」に関しては、昭和61年(1986年)の建立から時間が経ち老朽化が目立ち始めました。
そこで平成28年(2016年)に豊浜綿寝具協同組合で出資し、「わた神社」を新しく石作りの社殿として再建しました。
これにより、恒久的にわた神社を維持することができるようになった事は、とても悦ばしいことです。
6.未来へ向かう「寝心地ラボ+」と「綿乃舎」(令和時代)
6-1. 祖業への感謝と「寝心地ラボ」への大転換(令和5年)
令和4年(2022年)。私たちは大きな決断を下しました。
それは、創業以来120年以上にわたり続けてきた祖業である「製綿工場」を閉鎖するというものでした。時代の流れの中で、綿ふとんの需要が大きく変化したこと、また機械の老朽化も進み、工場を維持していくことが困難になったためです。
長年、私たちのものづくりを支えてくれた製綿事業への感謝の念は尽きませんが、その歴史と技術、そして何よりも「良い眠りを提供したい」という精神は、形を変えて未来へと引き継がれていきます。
製綿工場の閉鎖と時を同じくして、小売店舗を全面的に改装。「寝心地ラボ+ by ふとんのせいぶ」としてリニューアルオープンし、ロゴマークも新たに商標登録しました。
当店では、お客様の体型測定など科学的なデータに基づき、理路整然とご説明する「理系スタイル」接客を前面に打ち出しています。
さらには地域密着型の専門店の強みを活かして、寝心地をしっかりと体感いただくことのできるお店作りを重視しました。
そういったコンセプトを込めて「寝心地ラボ」と名付けました。
また、語尾の「+(プラス)」には、「お客様の期待を上回るご提案」や「単なる物売りではない付加価値のご提供」といった意味を込めています。
『寝心地ラボ+』というネーミングには、科学的な知見とお客様の体感に基づいて、最適な寝具を共に探求していく、地域密着型の寝具専門店でありたいという、私たちの強い想いが込められています。
6-2. 最先端技術で「快眠」をデザイン(令和6年)
私たちの「快眠」への挑戦は続きます。令和6年(2024年)、西川株式会社が展開する「ねむりの相談所®」に加盟し、睡眠解析システムを導入しました。
これにより、お客様の睡眠中の体の動きや深さなどを専用のセンサーで計測・分析し、睡眠の質を客観的に評価。そのデータに基づいて、よりパーソナルで具体的な睡眠改善アドバイスをご提供できるようになりました。
長年の経験と勘に加え、科学的なエビデンスに基づいたサポートで、皆様の「快眠」をより深く、より確かに実現できる体制が整いました。
6-3. 社交場「綿乃舎」の誕生と未来へ(令和6年)
同じく令和6年(2024年)、私たちは会社の歴史を未来を繋ぐ新たな取り組みも始めました。大正時代に建てられ、かつて当社の事務所でもあった歴史的な木造建築を当時の趣はそのままに、リノベーションしました。
この建物に「綿乃舎(わたのや)」という名前を付け、人と人が集うコミュニティスペース(社交場)としての活用を始めました。
現在、綿乃舎では様々なイベントを定期開始したり、地域の方に貸し出したりするなどしています。
かつて会社の事務所として機能し、長期間にわたって放置されていたこの建物が、今では地域の生活者が集い、語らい、学ぶことのできる、新たなコミュニティスペースとして生まれ変わったのです。
歴史的価値を継承しながら、未来へ向けて新しい価値を創造する。これが「綿乃舎」に託した私たちの夢であり、地域活性化への貢献の証です。
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7.結び:感謝を胸に、新たな価値を創造する西部製綿
天文元年から続くこの地の綿の歴史を受け継ぎ、明治35年の創業から123年。私たちは、幾多の試練や時代の変化を乗り越え、常に「より良い眠り」を追求し続けてまいりました。
この長い道のりを歩んでこられたのは、ひとえに、私たちを信頼し、支えてくださったお客様、地域社会の皆様、取引先の企業の方々、そして苦楽を共にしてきた従業員と、歴代の経営者たちの情熱があったからに他なりません。この場をお借りして、心からの感謝を申し上げます。
「綿」から始まった私たちの物語は、そして今、「快眠」という新たなステージへと大きく舵を切っています。
・「寝心地ラボ+ by ふとんのせいぶ」では、お客様一人ひとりに最適な寝具をご提供
・「綿乃舎」では、歴史と文化を感じながら心豊かな時間をご提供
・「ねむりの相談所®」では、専門的な知識と科学的アプローチで質の高い睡眠をご提供
これらの多様な「価値提供」を通じて、私たちはこれからも皆様の健やかで快適な毎日をサポートし、地域社会に貢献していきたいと考えています。
123年の歴史で培った信頼と経験を礎に、これからも変化を恐れず、常に新しい価値を創造し続ける西部製綿に、ご期待いただければ幸いです。