社長 石川克幸ストーリー

理論派の社長 石川克幸

社長 石川克幸ストーリー

カープファンだった少年時代

昭和50年(1975年)私の生まれ故郷のプロ野球チーム広島カープは、創設25年目にして初優勝。万年最下位と言われた地元チームの栄誉に、広島県民は空前の盛り上がりとなった。

当時私は小学校2年生。それまでプロ野球に全く関心の無かった私も、親たちと一緒になってカープを応援した。

小学校2年生の時のクラス写真。男子13名のうち、カープの赤い帽子をかぶっているのが5名という比率の高さが、当時地元でのカープ人気を物語っている。最後尾で背負われているのが私。見えにくいがもちろん赤い帽子をかぶっている。
この頃来ていたパジャマも、カープのユニフォーム風だった。背番号はもちろん『8』。ミスター赤ヘル『山本浩二』が私のヒーローだった。
今でも子供の頃の一番の思い出と言えば『カープ初優勝』。不思議なもので小学校5年、6年の時の思い出がそれほどはっきり残っていないのに、小学校2年生の時のカープ初優勝の光景だけは、今でもはっきりと覚えている。
私は1994年(平成4年)に広島の地を離れたが、もちろん今でも『カープ』の大ファンだ。

それにしても、今こうして香川で『ふとん屋』という仕事をしているのを不思議に思う。子供の頃の夢と言えば『作家』『科学者』『プロ野球の審判』『プロの将棋指し』などなど・・・
もちろん深く考えてのものではないが、その中に『ふとん屋』という選択肢は全くなかった。

泥臭かったカネボウ化粧品研究所時代

さしたる目標もないまま地元の広島大学(総合科学部)に入学し、そのまま大学院の修士課程まで行き『神経生物学』を専攻した。
そんな私が就職先に選んだのが、神奈川県の小田原市にある『カネボウ化粧品研究所』だった。1992年(平成4年)の入社だ。
別に『世の中にない画期的な化粧品を作りたい』とか思ってのことではない。 何となくイメージが良かったから。
当時はバブルの終わりかけの頃。超売り手市場だったので、就職は非常に容易だった。
ある時、同期が就職の内定をもらったという話を聞き、『ぼちぼち自分も』と思い立った。そこで、リクルートから送られてきた就職情報誌をパラパラめくって、選んだのが『カネボウ化粧品』だった。カネボウの人事に電話を掛けたら、すぐに面接が決まり、すぐに内定をもらえた。
今にして考えてみると、もう少し自分の将来に真面目に向き合うべきだったかもしれない。
父親も自動車メーカー『マツダ』のサラリーマン。そして私もサラリーマン。
自分の人生にビジョンなんて全くなかったけど、漠然とこのまま定年までサラリーマンでいるのだろうと思っていた。
化粧品研究員の仕事はそれなりにやりがいのあるものだった。自分の開発した口紅やマスカラがお店に並び、女性はきれいになりたくてそれを買ってくれる。

いわば『女性に美を提供する』仕事。世間一般のイメージからすれば、非常に華やかな仕事と映るかもしれない。でも実際には『水』と『油』と『粉』を混ぜる泥臭い仕事。

自分で作った試作品を、自分で付けてみて『これは発色がイマイチ』とか『これは付きが良いけど、持ちが悪い』とか・・・ある意味マニアックな仕事だった。ある日自分が口紅を付けたのを落とし忘れてそのまま退社、途中で寄ったコンビニで店員さんに変な目で見られたことがある。

写真はカネボウの新入社員研修の時のもの。自分で言うのも何だが、男が化粧をしている姿を見るのは気持ち悪いものだ(苦笑)

新商品の開発が佳境に入ると、一日100回くらい化粧品を付けては落としてということをやっていた。 口紅の開発担当だった時には、唇がカサカサに荒れていたし、マスカラの開発担当だった時には、翌朝起きたら目から真っ黒な目やにが出たこともある。

雑誌『美的』の『WE LOVE マスカラ!』特集に登場したことも(『藤本』は昔の苗字)

ある時大トラブルが発生した

研究・開発の仕事は、新しく品質の優れた化粧品を開発できればそれで終わりではない。目指す品質の製品が、工場の大量生産でも安定して作れないと全く意味がない。時にトラブルが起きることがある。
料理で例えると分かりやすいだろう。1人前作るのと100人前作るのでは、同じように作るのはかなり難しいはずだ。研究所の試作で1㎏作るのと、工場で1t(=1000㎏)作るのでは、時として全くの別物になってしまう事がある。
私が開発したマスカラの新製品を工場で生産したところ、何度作っても目指す品質のモノが出来なかったのだ。平成12年(2000年)頃の話だったと記憶している。
一日中工場に入って生産立会いをし、夜になったらその状況をもとに工場の幹部たちと会議(その日の生産結果報告と対策会議)。家に帰ったら深夜、かなり遅めの夕食を摂ったらすぐに寝て、そして翌朝起きたら会社に直行し、前日生産した製品の物性をチェック。こんな日々が何週間も続いた。
それでも生産が上手くいかないと、夜の会議で『いつになったらちゃんとしたモノができるんだ!』と怒号が飛び交うことになる。怒られるのはもちろん私。あの時は辛かった。もしあの時健康診断を受けていたら、おそらく『胃潰瘍』と診断されたと思う。
しまいには『これ以上やっても無理なので、本社に掛けあって発売を延期するか?』という話にまで発展した。それをやってしまうと会社の販売計画に大きな穴を空けてしまうことになる。この頃(2000年)はマスカラブームともいうべき時期だった。そのためこのマスカラに対する期待はかなり大きかったため、社内はかなりの大騒ぎとなるはずだ。
そのような事態を引き起こしてしまっては、私のプライドが許さない。
工場の人たちに土下座をする勢いでお願いして、生産を続けさせてもらい、試行錯誤のうえ、何とか思い通りの商品を生産できるようになった。無事予定通り販売にこぎつけることができたのだ。
今思えばあの時の経験があるから、ちょっとぐらいのピンチでは何とも思わない精神力が身に付いたと思う。

全国販売会議で受けた賞賛

年に数回『販売会議』なるものが行われる。
販売会議の場では『化粧品本部』や『化粧品研究所』の担当者が、全国から集まった『販売責任者』に向けて、新商品のプレゼンテーションを行うことになる。
通常は新商品の『コンセプト』や『技術的優位性』を伝えるのが一般的だ。
しかしながら私はこのマスカラのプレゼンテーションをするにあたり、技術的な話をほとんどせず、ひたすら『工場生産の苦労話』をしたのだ。
この時の会場の反応はすごかった。

私がプレゼンテーションを終え、壇上から降りようとすると、それこそ会場内はスタンディングオベーションだった。
私の人生の中で、ここまでの称賛を集めたことなど、後にも先にこの時だけ。それまでの苦労が全て報われた瞬間だった。
そして、このような苦労話は日本人の心の琴線に触れるのだと思う。『それだけ頑張って作ってくれたのなら・・・』と全国の販売員さんたちが力を入れて販売してくださったおかげで、そのマスカラは目標を大きく上回る販売実績を作ることが出来たのだ。

ささやかな誇り『殿堂入り未遂』

私がカネボウで最後に処方開発した商品が『テスティモ トリートメントマスカラベース』というマスカラ下地だ。

発売が2003年の6月だから、私がカネボウを退社する直前のこと。

実はこの商品、発売前から社内の商品開発の女性からの評価はすこぶる好評だった。商品開発の女性たちいわく『マスカラの乗りが良くなる』『まつ毛がくるっと上を向く』などなど・・・
しかしながら発売からほどなくして、私はカネボウを退社したので、この商品がどの程度売れたのかは知らない。
ちなみに商品開発の女性たちが催してくれた私の送別会では、頂戴した餞別の品に、ラッピングした『テスティモ トリートメントマスカラベース』がおまけとして添えられていた。
ところで、@cosme(アットコスメ)という、化粧品の口コミサイトをご存知だろうか?

私がカネボウに在籍していた当時から、@cosmeは非常に影響力のあるサイトだった。そのため『自分の作品が、一般消費者からどのように評価されているのか?』を知るために、@cosmeの口コミをいつも気にかけていたものだ。
私はカネボウを退社した後も@cosmeを時々チェックしていた。そうしたところ『テスティモ トリートメントマスカラベース』の評価がすこぶる高いのだ。しかもその評価は、発売から時間が経つほどに(年々)高まっていった。

そしてマスカラ下地・美容液部門で
2004年 3位
2005年 2位
と年々順位を上げ、ついに
2006年 1位
2007年 1位
と、2年連続で見事1位に輝いたのだ。

当時の@cosmeの規定では、年間1位を3回受賞すると『殿堂入りコスメ』の称号が与えられることになっていた(現在は年間1位を複数回となっているようだ)。
このままいくと『殿堂入りコスメ』が大いに期待できる状況であったが、2008年に『テスティモ トリートメントマスカラベース』は廃版となってしまった。これはカネボウのポイントメイクアップブランドの再編で『テスティモ』から『コフレドール』への移行に伴うものだが、私にとっては少々残念な話だった。
ただ、私の置き土産(カネボウでの最後の作品)が、このような高い評価を頂戴したことはささやかな誇りだ。

妻との出会いが私の人生を大きく変えた

カネボウ化粧品研究所の仕事は、やりがいのあるものだった。そして何より職場の人間関係にも恵まれ、何の不満もない楽しい生活を送っていた。
でもその一方で、大企業で組織の歯車として働くことに対する疑問の気持ちが芽生え、『自分の人生このままで良いのかな?』という想いが心の中でくすぶっていたのもまた事実だ。

ちょうどそんな頃、同じ研究所の隣の部署に、後輩として入社した来たのが現在の妻だった。

私たちは2001年(平成13年)の4月に結婚し、その後もカネボウに2年余り勤め、2003年(平成15年)7月にカネボウ㈱を退社し、妻の実家である西部製綿㈱に入社した

今こうしてふとん屋として仕事をしていて思う事は、カネボウ時代があるからこそ、今の自分があるということ。
扱う物は『化粧品』から『寝具』、職種は『研究』から『販売』へとまったく畑違いの仕事をしているワケだが、カネボウ時代の経験が今の仕事のいろいろなところで活きていると思うし、 今でもカネボウ時代のことを懐かしく思い出すことがある。
カネボウ化粧品研究所での11年間は私にとって大きな財産だ。

社長 石川克幸インタビュー

最初『ふとん屋』の話を聞いた時どう思いましたか?

社長 石川克幸

もし妻と出会わなかったら、そもそも私はふとん屋になるどころか、ふとん屋に行くことすらなかったはずです。
それくらい私にとってふとん屋は縁遠い存在でしたし、ふとんというものに対して全く無関心でした。

『羽毛ふとん1枚が5万円、10万円?何それ?高いなぁ。いらんわ…』というのがそれまでの私。当時まだ若かったこともあり『ふとんなんて安くても何でも、寝られさえすればそれで構わない』と思っていました。でも、こういうスタンスの人って世の中に多いのではないでしょうか?
ただ私の場合、妻の嫁入りふとんで初めて寝た時には感動しました。 羽毛ふとんの軽さと暖かさ、マットレスの寝心地の良さ(腰がとても楽でした)。『ふとんってこんなに気持ち良いんだぁ』ということを生まれて初めて知りました。それからは毎晩寝るのが楽しみになりましたね。
今私がこうしてふとん屋として、お客様に寝具の価値を熱く語っている原点は、間違いなくあの時の感動にあります。

よく『ふとん屋』になる決断をしましたね?

社長 石川克幸

理屈で考えたらそのままカネボウに残った方が良いに決まっています。安定性の面でも、休日の面でも・・・
今では実質ほぼ無休ですが、当時は年間120日は休んでいましたからね(苦笑)さらには良い仲間たちがいて居心地も良かったですし。
でも私にはどうもあのままの人生を歩んでもワクワクしないような、そんな気がして、新しいチャレンジをすることにしたんです。
それともう一つは・・・こんなことを言うのは照れ臭いですけど、妻です。
もし西部製綿という会社がダメになったとしてー自分で会社を経営する立場になるということは、そういったリスクも考えないといけないと思うのですが-『もし無一文になって、四畳半一間の生活になったとしても、この人と一緒なら幸せに暮らしていけるだろう。』と思えました。
そう考えたら何も怖れるものはないですよね。すっぱりと前向きに『婿養子として西部製綿を手伝ってやる』と決断をしました。
西部製綿に入社した時に、それまで『藤本』だった苗字を『石川』に変えました。仕事を変わるのはさほどに思わなかったけど、苗字を変えるのは自分的に重かったですね。 役場に届け出する時にはさすがに“ぐっ”とくるもがありましたよ。

ふとん屋になって最初はどうでしたか?

社長 石川克幸

まず最初に痛感したのは『自分ってなんて無力なんだろう』と・・・(苦笑)
考えてみたら当たり前の話なんです。『寝具』とか『眠り』の知識はほとんどなし。おまけに『接客』の経験も皆無でしたので、自分に出来ることが何も無かったです。
それまで11年間化粧品研究員として、それなりのプライドを持って生きてきたつもりでしたけど、そんなプライドは見事に打ち砕かれましたね。

それともう一つ、入社したのが夏場だったこともあり『ふとん屋ってこんなにお客様が来ない(少ない)んだぁ(-_-)』・・・と(苦笑)
でもこれまた考えてみたら当たり前の話なんですよね。食料品などと違い、ふとんは一度買えば長く使えてしまうアイテム。頻繁に買い替える必要がありません。
しかもお店を見て頂けるとお分かりいただける通り、目の前は海、背後は山のとても田舎の立地です。そんな田舎の寝具店に、毎日お客様がたくさん来られるということはありえません。
ここで私なりに強烈な危機感が芽生えました。
『このままじっとしていたらヤバいなぁ』『そもそも自分は何のためにここにやって来たんだ?』と・・・そこで私なりに考えたんです。『とりあえず今の自分に出来ることは何?』って。
そこで私の出した結論は『お客様に来ていただけるようにすることが、今の自分に出来る最大の仕事だ』ということ。
お店にお客様が来られたら、接客は親たちに任せておけば良いだろうということで、自分のするべきことは『販促』だと・・・誰に命令されたワケでもなくそう決めました。そこで入社して1カ月も経たないうちに自分で勝手にチラシやらニュースレターを作り始めたんです。

最初は親からいろいろクレームがついたそうですが?

社長 石川克幸

そりゃ当り前ですよね(苦笑)
義親たちから見れば私なんて全くのドシロウト。一方の親たちは、何十年もこの仕事をやってきたプライドもあるはずです。
チラシやらニュースレターやらを勝手に、しかも斬新なモノを作り始めたのですから、私が作るものに対して『あれダメ』『これダメ』といろいろと注文をつけられました。
しかも当時社長だった義父は工場で汗水たらして製綿の機械を回している。私はエアコンの利いた店内でパソコンに向かってデスクワーク。親たちからすると、『勝手に何をしているんだ?』と思ったことでしょう。パソコン仕事をしている背後から冷たい視線を感じたこともしばしばです(苦笑)
でも私は自分のやり方を決して曲げなかったんですね。
もともと私は頑固な人間です。私なりに西部製綿のためにこれがベストだと考えて始めたことですから、我が道をゆきました。
やはり親たちも婿養子に対しては遠慮があるはずでして、そのあたり間に妻を立てて巧妙に(?)立ち回り、自分のスタイルを通しました。実の息子だったらこうはいかなかったと思います。

デビュー作は今も大事に取ってあります。作りは粗削りですし、表現は稚拙。レイアウトもシロウト丸出しです。それでも中でお伝えしている内容そのものは、今とほとんど変わっていないんです。言い換えれば、入社以来一貫したスタンスで、ぶれることなくやり続けてきたということです。これは誇っても良いのではないかと思っています。

記念すべき(!?)デビュー作

さて、こうして作ったデビュー作を、当時のお客様のところにお送りしました。2003年(平成15年)の10月のことです。
そうしたところ、意外と最初からお客様の反応が良かったんです。
お客様からいろいろと『お褒めの言葉』や『励ましの言葉など』をなど頂戴することができました。そういったことが続くうちに、だんだんと親たちから文句を言われることもなくなりました。
おかげ様で今では私の作るニュースレターやDMを楽しみに待ってくださるお客様が大勢いらっしゃいます。

自称『日本一文章を書くのが好きなふとん屋』とか?

社長 石川克幸

あくまで自称ですからね・・・でもたぶん誰からもクレームは付かないと思います(笑)。
ちょっと自慢話になりますけど、私の作る販促物は全国あちこちの同業者の中でも結構な評判なんです。

私の作るDMやニュースレターはコピーがたくさん出回っているらしく、全く見ず知らずの初対面の方から『せいぶさんのDM見ました。良く出来てますね♪』なんて声を掛けられることもしばしばです。 『誰がコピーを配ってるの?』と不思議に思ったりもするんですけど、光栄なことです。

ここで私のDMの代表作の一つをご披露しますね。2016年11月の創業祭のDMです。
その表紙のオモテ面。

そしてウラ面です。

毎年秋に創業祭をやっているのですが、この年は私が熱狂的に応援している広島カープが25年ぶりにセリーグ優勝したんです。もうとにかく嬉しくって♪
そこで『広島カープ優勝セール』も謳ってみました。お買い上げ粗品も、広島から『カープもみじ饅頭』を取り寄せるという念の入りようです(笑)
このDMを他県に住む同業者に見せたところ『香川県ってカープファンが多いの?』という質問を受けましたが、答えは『NO』です。
実際のところ、香川県は阪神ファン、巨人ファンが多く、カープファンは少数派です。でもセール中来店いただいたかなりの数(20人以上)のお客様から『カープ優勝おめでとうございます。』というお声を掛けていただきました。
そしておかげ様でこの時のセールは大盛況。過去最高の売り上げを記録することが出来ました(感謝)
よく人から『ふとん屋やめて、モノを書く仕事をしたら?』なんて言われます。
でも私としてはふとん屋という仕事があって、その情報発信の手段として文章を書いているのであって、文章を書くことそのものが仕事になってしまったら、多分しんどいというか楽しくないと思うんですよね。

さて、こうして作ったデビュー作を、当時のお客様のところにお送りしました。2003年(平成15年)の10月のことです。
そうしたところ、意外と最初からお客様の反応が良かったんです。
お客様からいろいろと『お褒めの言葉』や『励ましの言葉など』をなど頂戴することができました。そういったことが続くうちに、だんだんと親たちから文句を言われることもなくなりました。おかげ様で今では私の作るニュースレターやDMを楽しみに待ってくださるお客様が大勢いらっしゃいます。

今では接客・販売もバリバリやっている様子ですが?

社長 石川克幸

きっかけは私が入社してちょうど1年後にお店の改装を行い、その時に『オーダー枕』のシステムを導入したことです。

実は最初、親たちにはオーダー枕の導入も反対されたんです。『オーダーメイドなんて手間を掛けたところで、こんな田舎で1万5千円(当時)もする枕が売れるはずはない。』と言うんです。
そこを何とか説得して始めました。
ですから『だから言っただろ・・・』と言われないように、私としても最初から必死でした。

おかげ様で最初から順調に多くのお客様にご来店いただき、私も頑張ってオーダー枕をお作りしました。おかげ様で間もなくオーダー枕に関しては全国有数の成功店舗として評価されるようになりました。
そんな感じでやっていたら、接客に対して持っていた苦手意識がいつの間にかなくなっていたんです。

もともと私はかなりの人見知りでして、初対面の人と話すのは非常に苦手な人間だったんです。でも今の仕事をやっていて、そんなこと言ってられませんよね。人間ってその気になりさえすれば変われるものです。 学生時代とかカネボウ時代の私のことを知っている人が、今の私に会ったら『随分と変わったなぁ』・・・って驚かれると思います。

この辺りのいきさつは三豊観音寺情報誌miteGO(ミテゴ)の創刊号(2014年11月)『観音寺一の○○バカ!』で詳しく取り上げられました。

最近はカメラに凝っているそうですね

社長 石川克幸

凝っていると言っても、ヘタの横好きですよ(苦笑)
先ほど申し上げた通り、私は『自称日本一文章を書くのが好きなふとん屋』です。文章を書くのは得意だと思います。でもその一方で、絵心は全くありません。学生時代の図工や美術は苦手でした。
同業者のブログなどを拝見しても、『写真の撮り方が上手いなぁ』と思う人がいます。それに引き換え、自分は『写真のセンスがないなぁ』と常々思っていました。

一つの転機は、2014年に長男が生まれたことです。それ以降息子の写真を撮る機会が増えました。そうなると『もっと可愛く撮りたい』という気持ちが芽生えてくるのが当然の流れです。
そこでちょっと奮発して、デジタル一眼レフカメラを買ってみたんです。

そうしたところ、背景がボケたりして、ちょっとプロっぽい写真が撮れるようになったんです。それからは写真を撮るのがとても楽しくなりました。
カメラ本体とレンズを何種類か買ったので、それなりの値段しましたが、私のこれまでの人生で買物した何よりも満足度が高いです。今ではカメラがすっかり手放せなくなりました(笑)

こうやって下手くそなりに写真をこだわって撮っているうちに、やはり『伝える』という意味では、写真は非常に有効だということに気が付きました。
100の言葉を用いても伝わりにくかったことが、たった1つの写真でストレートに伝わることもありますよね。
ですからより『伝える』ために、これからは『写真』の腕前も磨いてゆきたいと思っています。商品や店内の写真も私なりに工夫して撮るようになってきました。

そんな感じで、マニアックに仕事を楽しんでいます。
西部製綿株式会社の代表取締役社長という立場ですから、私は『経営者』ということになると思うのですが、自分では『経営者』というタイプではないと思っています。
では何タイプか?・・・というと『商売人』でもないと思います。ましてや『職人』でもありません。
しいて挙げれば『芸術家』タイプの人間と言えるかもしれません(笑)

ふとん屋になって後悔した事はないのですか?

社長 石川克幸

それが全くないんですよ(笑)
ただ・・・この世の中には『上り坂』『下り坂』『まさか』の3つがあると言われていますけど、『まさか』の連続でしたね。
2006年(平成18年)に製綿工場が火事で全焼したのが、その最たるものなんですけど、それ以外にもここではお話しできないような『まさか』がたくさんありました。
いつかその事を自伝に書いてやる・・・と勝手に決めているんですけど(苦笑)

2006年(平成18)年1月28日 製綿工場が火事で全焼
ただ強がりでも何でもなく、後悔したことは一度もないんです。もともと私って楽観主義者なもので、少々の逆境や苦労はバネに出来るタイプの人間だと思います。
逆に『やりがいあるじゃん』と思えてしまうんです。

寝具業界はどのように映っていますか?

社長 石川克幸

それに対して直接お答えする前に、先ほど申し上げた『まさか』の一つをご紹介します。
世の中ではあまり知られていませんけど、『ふとん屋』ってまさに衰退業界なんです。
具体的な数字でご説明しますと昭和60年に日本全国の寝具専門店で1年間に販売された寝具販売額の合計は約4000億円。それが今では約400億円を下回っています。わずか30年の間に10分の1に減っているんです。
言ってみれば、かつてふとんはふとん屋で買うのが当たり前であったものが、大手量販店やインターネットの普及により、当たり前ではなくなってきているということなのです。

2013年4月 商業界 香川同友会にて講演 、テーマ『衰退産業を生き残る』サブテーマ『婿養子だからできた業態改革』

もともとふとん屋とは縁のない世界で生きてきただけに、そんなことこちらに来るまで全く知るはずもないワケでして『俺が新しく入った業界は、こんなに景気が悪かったんだぁ(-_-)』って感じでした。

まさに『まさか』ですよ(苦笑) ただ私としては縁あって寝具業界にやってきたのですから、この業界が良くなるための力になりたいという想いは非常に強いです。
そんな想いで日々過ごしていますので、おかげ様で全国で前向きに頑張っている同業者とのご縁をいただいています。こういったつながりは今の私にとって非常に大きな財産です。

ふとん屋のどこをどう変えたいですか?

社長 石川克幸

やはり何と言ってもふとん屋のイメージを変えたいです。
私がもと化粧品研究員だったことを知った人に『せっかく良いところにいたのに、もったいない。』 と言われることが非常に多かったです。
もちろんその人は良い意味で言ってくれていることは分かるんですけど、そう言われると私としては実はあまり良い気がしないんですよね。まるで『ふとん屋が化粧品研究員より下』と言われているみたいで(苦笑)
ですからそういう時私はこう答えます。『いえいえ。ふとん屋はやりがいのある仕事ですよ。今の方がやりがいがあって楽しいです』と。
決して無理して言っているのではなく、心底そう思っています。
ただその一方で、世間一般の方々のふとん屋に対するイメージがどんかものかも私には良く分かります。もちろん決して悪いイメージではないのですが、何となく野暮ったい感じのはずです。 少なくとも『格好良い』というイメージではないですよね。
ただこの業界に入って分かった事は、全国にはこの仕事にプライドを持って取り組み、『眠りの事を真剣に考えて』『お客様に良い眠りをお届けしたいと頑張っている人がとても多い』ということ。
実は『格好の良い人の多い業界』なんです。
ですから一般の方々に『ふとん屋は格好良い』と思ってもらいたいですね。そのためにはまず何より私自身が『格好良くあること』が大切です。
だからと言って、このことを声高に叫んだとしてもすぐに伝わるはずもないので、まぁぼちぼち頑張ります♪

最近の仕事ぶりはいかがですか?

社長 石川克幸

西部製綿に入社して、つまり寝具業界にやって来て20年になります。ふと考えてみると、もしかしたら20年間の中で今が『一番仕事が楽しい♪』と感じているかもしれません。
入社当初は、何も知らなかったので、この業界の常識に縛られることなく、いろいろと新しいチャレンジをしてきたように思います。
それから年を経て、徐々に経験が身に付くとともに、最初の頃のような『がむしゃらさ』とか『ワクワク感』は薄れてきました。ある意味惰性でも仕事をこなせるようになった・・・と言えるかもしれません。
でも最近は、最初の頃に戻ったようなフレッシュな気持ちで仕事に向き合えています。
これに関しては、息子たちの存在が大きいと思っています。息子たちは現在8歳と5歳です。

結婚して長らく子宝に恵まれませんでした。長男が誕生したのは結婚して13年目のことでした。その時私は47歳にもなっていましたから、随分と歳とった父親ということになります。
最近では毎日息子たちに振り回されヘトヘトで、自分の時間も何かと犠牲になっています。

でもその一方で、息子たちの成長で『言葉が増えた』『ボールをキャッチできるようになった』『九九を覚えた』など、毎日が変化と喜び、感動の連続です。
そんな毎日を過ごしていると、やはり脳が活性化されるのでしょうか、仕事に前向きに取り組むことが出来ており、以前より新しいアイデアがちらほらと浮かぶようになってきました。
それともう一つ、息子たちが何かをした時『すごいねぇ』『上手~!』と大げさに褒めてあげるようにしています。
そうすることで息子たちが、好きなことに対して、より一生懸命に取り組むので、それを私がもっと褒めるという好循環が生まれています。

もともと私は人を褒めるのが苦手な人間です。でも息子たちを褒めているうちに、人に対する接し方も変わり(人当たりが柔らかくなった?)、そのことがお店での接客にも表れているのか、以前よりもお客様の反応が良くなってきたように感じています。もちろんそう感じているのは自分だけかもしれませんが(苦笑)

DM作りに関しても、息子たちの成長の様子を載せているので、ネタには事欠きません。そしてそれをご覧になったお客様が、息子たちに親近感を抱いてくださり『いつも楽しみに見ています』と言っていただけるのが、また嬉しいです。特に同世代の子育てをしている方に共感いただいているように感じています。

そして最近、私に似たのか長男がすっかり創作活動にハマっているのです。そんな長男の創作意欲をもっと引き出し、伸ばしてあげて、近い将来『DMを親子による合作に出来れば』という妄想を抱いている今日この頃です。

将来の目標は何でしょう?

社長 石川克幸

うちの会社は、創業1902年(明治35年)、法人化(西部製綿株式会社になったの)が1948年(昭和23年)です。西部製綿株式会社の社長としては私で4代目です。

せっかく、婿養子としてやってきたのだから、自分の代で事業を終わらせてしまうのは非常に申し訳ないという気持ちは強いです。
ですから何とか息子にバトンタッチ出来ればと思っています。
そのためには、これまで以上にお客様に選んでいただける良い会社にしていかなければなりません。

そして生き生きと仕事をしている私の生きざまを息子たちに見せることで、『仕事をしているパパは格好いい』『パパの仕事楽しそうだから、僕も一緒にやりたい』と言ってもらいたいですね。
そんな様子や想いをDMやブログでお伝えし、その様子に共感いただき、そして皆様から応援してもらえたら嬉しいですね。
『親から息子へのバトンタッチのストーリーを紡ぎだしていきたい。』それが今の私にとって、大きなモチベーションとなっています。

最後に座右の銘を教えてください

社長 石川克幸

『随所作主』です。
禅の言葉で、この後に『立処皆真』と続きます。『随所作主 立処皆真』という字面から、何となく意味は想像できると思います。

いろいろと解釈の仕方があるみたいですが、私は『いついかなる時、いかなる場所であったとしても、今いる場所で、自ら主体性を持って最善を尽くせば、かならず道は開ける』と解釈しています。ある本でこの言葉を見つけた時には『自分の人生はまさにその通りなんだ!』と思いました。

ようやく『この言葉と出会えた』という感覚でした。
今自分がいる場所で、今の自分のやるべきことにしっかりと向き合って、愚直にやっていきたいと思っています。