店長 石川裕美ストーリー

店長 石川裕美ストーリー

子供の頃からふとん屋は身近な仕事でした

西部製綿は歴史の古い会社で、祖父のそのまたおじいちゃんが、明治35年に創業した会社が前身となります。
私が物ごころついた頃には、綿工場に多くの従業員さんがいて、いつも忙しそうにふとんを作っていました。

その頃は(平成21年に亡くなった)祖父がまだ現役の社長としてバリバリ仕事をしていて、その下で両親もまた休む間もなく仕事をしていました。
私は綿工場や仕立て場、そしてお店を遊び場にして育ったので、ふとん屋の仕事はとても身近なものでした。

私は3姉妹の二女で、将来はそのうち誰かが西部製綿の仕事の後を継ぐように言われて育ちました。
私が小学校2年生の時の文集には『大きくなったらふとんやさんになりたい』と書いています。

ただ実際のところ、西部製綿の仕事は長女である姉が継ぐ流れになっていました。

私はというと小学校高学年になった頃には、あるテレビドラマで観た女医さんに憧れて、お医者さんになりたいというのが一番の夢となりました。
実際に大学受験では医学部をいくつか受験したのですがどれも受からず、あきらめて日本女子大学の理学部に入学しました。
そして就職先を選ぶ時には『健康と美容』に関わる仕事をしたいということで、食品メーカーと化粧品メーカーを受け、そしてカネボウの化粧品研究所に入社しました。
カネボウではスキンケア化粧品の処方開発を担当しました。

ある時上司からこう質問されたことがあります
『石川さん、もしあなたにスキントラブルがあった時に、どんなスキンケア化粧品が欲しいと思う?』と・・・
その時とっさに私の頭に浮かんだ答えが『私だったら外から塗る化粧品に頼るのではなく、栄養のバランスの良い食事を摂り、規則正しくぐっすり眠って、体の中から改善します。』というもの。
およそ化粧品研究員らしからぬ答えゆえに、その場では上司に答えることができませんでした。
しかし私としては、確かにその通りだと思える答えでもありました。

ちょうどその頃、西部製綿を継ぐことになっていた姉に縁談が持ち上がり、その相手が『長男』で『お医者さん』だったので、姉はお嫁に行くことになりました。
そこで西部製綿の跡継ぎの役は私に回って来たのです。
カネボウでの生活はとても楽しかったので、向こうで結婚相手を見つけて、サラリーマンの家庭を築くのも悪くないなぁ・・・なんて思い始めた矢先のことでした。
妹もいますが、私が『お嫁に行くので後は継げない』なんて言うと、妹も『お姉ちゃんたちがお嫁に行くのなら、私も・・・』ということになりそうな気がしました。
やはり祖父母や、両親が頑張って仕事をしてきたのを見てきただけに、ましてや長い歴史のある会社なだけに、私たちの代で西部製綿を終わらせてしまうワケにはいかないと思いました。

そこで私はこう思ったんです。『美容と健康を、ふとん屋の立場からお客様に良い眠りを通して提供しよう』と・・・
子供の頃の夢だったお医者さんにはなれませんでしたが、ふとん屋として「健康」に関わる仕事ができるんじゃないか、と考えたのです。

店長 石川裕美インタビュー

それで克幸さんを婿として香川に連れて帰る事になったのですね?

店長 石川裕美

姉が結婚式を挙げた直後くらいに、私たちは付き合うようになったんです。
そのあたりの事情を克幸さんに話したところ、私が驚くほどあっさりと『よし分かった』と言ってくれたので、最初は半信半疑でした。ただその後も話をしているうちに、この人は真剣に考えてくれているんだな・・・というのがだんだん分かってきました。

その一方で・・・こんなことを言うと、私って打算的な人間みたいですけど(苦笑)
やはり『化粧品研究員』と『ふとん屋』では、必要とされるもの(能力・資質)が異なるので、『この人をふとん屋として連れて帰っても大丈夫か?』というのは、私なりにいろいろと考えた部分でもあります。
でもそれに関しても『この人なら大丈夫かな』というのはありました。・・・・・今だから言える話ですけどね~(笑)

結婚の段階では、西部製綿に入社する時期に関して『そのうちに・・・』という決め方で、具体的にはには何も決まっていませんでした。
2001年の4月に結婚しましたが、そのまま二人ともカネボウに勤めていました。
ところがある時、主人の方から『もうそろそろ・・・』と言ってくれたのです。
このことを実家の両親に伝えたところ、逆に『そんなに急がなくても』と驚いていました。
しかし高齢の祖父母もいるので、みんなが元気なうちに戻った方がいいかな、というのもあって、結婚して2年後の2003年の7月にカネボウを退社し、二人で西部製綿に入社しました。

ふとん屋になって最初はいかがでしたか?

店長 石川裕美

子供の頃から親たちの仕事を身近で見て育ったとはいえ、実際に仕事を始めてみると、全く何も分かりませんでした。
最初の頃は主人と二人だけで店番しているような時には『お客さん今は来ないでぇ~』と内心祈るような情けない状態でした(苦笑)
ですからお客様が来られた時にはなるべく接客する母の横に付いてまわり、徐々にふとん屋の仕事に慣れてゆきました。
研究の仕事と違ってふとん屋は日々お客様とじかに接するので、そういった意味でのやりがいを感じています。

最初はヒラ店員という肩書だったそうですね?

店長 石川裕美

もともと私たちが西部製綿に入社した時に、二人の名刺を作ることになって、肩書きをどうしよう?という話になったんです。
当時社長だった父は『課長だろうが部長だから好きに付けたらいい』と言ってくれたんですけど、何せ小さい会社で「課」も「部」もないし、二人とも全くのシロウト。
偉そうな肩書きは付けたくないと言うことで、主人を『主任』ということにして、私を『ヒラ店員』ということに決めました。
『主任』は問題ないにせよ『ヒラ店員』はふざけ過ぎているかな?・・・と思っていたのですが、チラシやDMなどで二人の肩書きを紹介したところ、お客様から『あなたがあのヒラ店員さん?』とか意外と評判がよくって(笑)すっかりヒラ店員の肩書きが気に入っていました。

その後主人が社長になるタイミングに合わせて、私も店長に昇進(?)しました。でもいまだに『店長』と呼ばれるのに慣れていません(苦笑)

趣味を仕事に生かされているようですが?

店長 石川裕美

お菓子作りが好きなので、私の手作りケーキをお客様に差し上げたりしています。
自分が作ったお菓子をお客様が『美味しい♪』といって食べてくださるのは嬉しいです。新しいお店にはキッチンも作ったので、お菓子作りのイベントが出来ればと思っています。
中には『お菓子屋さんやったら?』なんて言ってくださる方もいるのですが、私としては趣味で作っているからこそお客様が喜んでくださるのであって、それを真に受けて商売にしようなどとは思っていません。

あと、昔書道を習っていたので字を書くのも好きなんですけど、お店のPOPやサンキューレターを私の手書きにしています。

もともと私は趣味は多い方だと思います。
学生時代やカネボウの時は自由に使える時間がいくらでもあったので、いろいろな趣味に手を出していたんですけど、今の生活ではなかなか自由な時間が作れません。だから今は仕事と趣味をつなげられるような工夫をしています。
自分が趣味として楽しくやっていることでお客様が喜んでくださるなんて、まさに一石二鳥ですもんね♪

母親業の方はいかがですか?

店長 石川裕美

長年子宝に恵まれなかったので、入社してからもずっと仕事に専念することが出来ていました。でも、おかげさまで2014年11月12日に長男、そして2017年8月22日に次男と、二人の息子を授かりました。

それからは子育てが大変で、なかなか仕事に向き合うことが出来ませんでした。でも息子たちの成長と共に、だんだんと手が掛からなくなってきたので、少しずつ仕事量を戻してゆきたいと思っています。
最近は息子たちがお店で勉強したり、遊んだりすることも増えてきました。お店で息子たちを見かけられた際、もしかしたらふざけたり、調子に乗り過ぎてご迷惑をお掛けすることもあるかも知れませんが、暖かい目で見てやってもらえれば嬉しいです。